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身延大乗結社
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関戸久妙 半生記

1.夫の死から、雛鶴神社の再建を決意

2.次々とあらわれた神仏のメッセージ

3.孤独と不安からの出発

4.身延山での修行

5.七面天女のお姿を霊視

6.木花開耶姫のお姿、聖徳太子との出会い

7.木花開耶姫之図と御本尊、七面天女之図が完成

8.心願成就、雛鶴神社の再建

9.すべての法縁を悟る

 
1.夫の死から、雛鶴神社の再建を決意

 

 昭和32年5月、私の住んでおりました山梨県南都留郡秋山村で、村長選挙に村人の8割が選挙違反に問われるという事件が起き、村中、大騒ぎになりました。
 当時、夫は村会議員、叔父はかつて村長であったこともあって、まさしく事件の渦中にあり、心身ともに疲労困憊しておりました。

 ある時、野呂川林道の視察に出かけた夫は、西山温泉で倒れてしまいました。クモ膜下出血でした。そして、10月25日。とうとう夫は、47歳の若さで亡くなってしまいました。

 夫を亡くした深い悲しみの中で、私は夫のいのちを奪ったのは、秋山村のあの騒動であることを思うと、もう二度と、こんな悲しい犠牲者が出ませんようにと、夫の冥福を祈ると同時に、村の平和を神仏に祈らずにはいれませんでした。

 

 私の家には、古い軸がありました。それは、木花開耶姫を描いたものでした。
 ある先生から、こんなご指摘をいただきました。

 「祭られたお方の魂と祭った人との魂とが籠もっているのに、この様に粗末にしておくから、こんなことになったのです。ご主人よりも、本当はあなたの寿命が短かったのですよ。でも、為すべき事があるので、あなたは残されたのです。雛鶴神社をきちんとお祭りすれば、村も落ち着きますよ。」

 

竹林

 

 雛鶴神社とは、雛鶴姫を祀った神社のことです。
 雛鶴姫は、南北朝時代、建武二年(1335年)7月、後醍醐天皇の皇太子、塔宮護良(もりよし)親王が、鎌倉で悲運な最期を遂げられたとき、親王の首級を抱いて逃れた方です。雛鶴姫は、その時、すでに親王の児を身籠もっており、秋山村のはずれでお産をしましたが、まもなく母子共々亡くなられたという伝説があります。

 また、その20年後、護良親王の王子、綴連(つづれの)王が、戦乱の中を亡命して、この地に来られ、村民の話に不思議な因縁を感じ、村に住み着いて73歳の天寿を全うしました。そこで村では、護良親王、雛鶴姫、綴連王を神に祀り、雛鶴神社を創建しました。

 

 ところが、いつの日か、その神社は小さな祠があるばかりで、皆からは、忘れられておりました。
 私は、秋山村に、なんとか平和を取り戻したい、そのためには、なんとしても私の手で、雛鶴神社を再建せねばと、このとき深く決意をしたのでした。

 

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